白土三平 画業50年記念出版 決定版カムイ伝全集全38巻
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『カムイ伝全集 全38巻』WEBのための書き下ろし 江戸時代の差別構造概観 田中優子(法政大学教授)
日本の村の多様性

 前回は「穢多」とはどういう職業で、どういう歴史をたどり、どのようなところでどういう生活をしていたか、について書いた。今回はこのことを『カムイ伝』に沿って考えた場合、どういう環境と生活が浮かび上がってくるかを書いてみたい。まず夙谷は、日本のどこにあるのだろうか。
 中尾健次『『カムイ伝』のすゝめ』(注1)は、『カムイ伝』の展開する「場所」について、次のような見解をもっている。
1、最初は東北地方をイメージし、シャクシャインの反乱につなげる構想であったので、はじめのころの巻は東北をモデルにしている。そのため、東北の山に特徴的な「マタギ」が登場する。
2、途中から綿の栽培についての話になり、畿内がモデルとなってゆく。
3、やがて日置藩はとりつぶされて天領となり、京都所司代の管轄下に入る。
4、海岸線があり、クジラやカツオがとれる漁村がある。
5、正助は飢餓の調査に摂津・河内にでかけている。
 以上のことから、最初のころは別として、日置藩は和泉国の南部、紀州に接したあたりを想定しているのではないか、と結論している。『カムイ伝』はフィクションなので、もちろん日本のどこかに特定することにあまり意味はないだろう。東北と近畿が一緒になったような地域の、地域差が混然となった村、という想定でもいいわけだ。むしろ中尾健次がさまざまな観点から試みたように、特定しようとして日本各地の特徴をあれこれ調べてみる、という行為自体に意味があるように思える。今の日本はともかくとして、江戸時代の日本は地方ごとに気候や農作物の特質があり、職業もその名称も異なり、言葉も違えば、顔も少しずつ違った。意識的に名産品を作り出そうとした時代であったので、力を入れる農作物にも差があった。『カムイ伝』の空間を考えることで、日本の多様性が見えてくるはずだ。
 その多様性についてはこの連載のなかで徐々に述べるとして、今回は前回の続きとして、『カムイ伝』の夙谷のようなところが実際はどのような村だったのか、考えてみたい。とくに『カムイ伝』の花巻村と夙谷との関係はどういう関係なのか、気になるのである。

実在のかわた村
 かつてのかわた村の事例として研究者が挙げる村に、摂津国能勢郡野間口村、下田村、和泉国南郡嶋村、和泉国泉郡南王子村、河内国丹北郡南更池村などがある(注2)。畑中敏之によると、このなかの南王子村は他の百姓村と同じように、ひとつの村として経済的に自立していた、という。また野間口村、下田村、嶋村は、特定の百姓村を「本村」とする「枝村」の事例である。野間口村は余野村を本村とし、下田村は片山村を本村とし、嶋村は福田村を本村として、それぞれがその枝村になっていた。しかし枝村とは言っても、それぞれのかわた村は独自の村高(年貢や諸役の基準となる総石高)や、庄屋を持っていて、ひとつの行政村として扱われていた。そして南更池村は、行政村として独立しておらず、行政レベルでも生活共同体レベルでも、本村に所属する村だった。かわた村とその近くにある百姓村とは『カムイ伝』の中だけでなく実際に、深く関わりあっていたのだった。そしてその本村との関わりかたは、ここに示されている三つの形を基本に、さまざまなかたちがあったことがわかる。
 和泉国泉郡のかわた村(のちの南王子村)の人々は、信太大明神(聖神社)に奉仕する集団として、十家族前後が信太郷のはずれの王子村領内に土地を与えられ、移住させられた。この地域は年貢が免除され、その他の王子村とは区別されたのである。このかわた村は江戸時代、17世紀末には143石の石高をもっていたようである。しかしここの人々は、差別の根源である年貢免除の土地を引き払い、自ら年貢義務を負って南王子村に移り住んだという(注3)
 他の村の枝村(従属する村)である事例は多いのだが、どうやら南王子村は惣之池と呼ばれる池をもっており、田畑の用水をこの池だけでまかなっていたようで、それゆえに独立村落を形成することができた。そしてこの南王子村は、近隣の大鳥郡、泉郡、南郡の三郡にまたがる200を超える(明治初期に148という説もある)村々の斃牛馬(たおれぎゅうば)処理を担当していた。このような一定の圏内の斃牛馬処理を引き受ける集落のことを「草場」とも言った。
 南王子村は説経節『信太妻(しのだづま)』(文楽『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』のもとになったもの)の舞台であったとされる村だ。この物語では陰陽師・安倍晴明の母親は、信太の森の狐だったことになっている。このような物語で、人間と住む世界が異なるために別れなければならない動物になぞられるのは、被差別民であると言われる。それが一般化できるかどうか充分な研究はないが、『信太妻』にまつわるこの説は、信太の南王子村の存在から発想されたものだったのではないだろうか。この村は聖神社に仕える村としても、また100〜200の村落の牛馬処理を引き受けるという大きな仕事を常時にない、独自の水利権があり、金融業を営む富裕層を抱える、経済力の確かな独立村としてよく知られた村だったのではないだろうか。いわばかわた村の代表とみなされていた可能性があり、その物語が、朝廷にいる安倍晴明と結びついたのではなかったろうか。
 朝廷と被差別集団に特殊な関わりがあることは、よく言われている。その根拠は「河原巻物」で、遊行の職人や芸能民の持ち歩く河原巻物には彼らを「認可」した貴族の名前が書かれるものであった。中尾健次は皇族貴族の権威をまとった「士」身分の者が、自らを「浄の者」として農民・町人・職人などの平民との差異を確かにするために、「不浄の者」を必要とした、という見解を述べている。さらにそれを現実社会のなかで具体化するためには、都市部における浅草弾左衛門のような頭(かしら)組織、農村部におけるかわた村を従属させる(あるいはさせているかのように見せる)「本村」「枝村」システム、そして一定の仕事を独占させる「斃牛馬処理」システムの3つのシステムが必要だったはずだ、という興味深い見解を述べているのである(注4)
かわた村の成立

 畑中敏之の著書に拠りながら、かわた村と百姓村の関係について三種の形体があることを見てきたが、ではかわた村はなぜ作られたのか。畑中氏は「士」身分の者が、自らを「浄の者」として農民・町人・職人などの平民との差異を確かにするために「不浄の者」を必要とした、と書いているが、私は身分や制度が作られるとき、倫理や権威論、精神論では説明がつかない、と思っている。たとえば近世初期のキリスト教弾圧の理由は「士農工商の身分制度と忠義の精神を守るため」と教科書では説明されているが、そういうことのために人間は動かない。百歩譲ってそうであったとしても、ではどのような実際的な必要があって身分制度や忠義を必要としたのか、説明しなければならないはずである。私はキリスト教弾圧の問題は(あるいは忠義を中心とする軍事体制そのものも)、ヨーロッパの植民地主義とその方法に理由がある、と考えている。つまり植民地支配という方法が日本にまで浸透してきた結果、それに対抗する手段として新たな体制が作られ、それが江戸時代体制だと見ている。近世はいくつかの現象については、地球規模で見なくてはその理由が明確にはならないのだ。
 その問題は置くとして、ではかわた村が作られた実際的な理由は何であったろう。かわた村はその呼び方からいっても、明らかに「斃牛馬の処理と皮革の供給」にその機能があった。つまり差別するために作られたのではなく、必要に迫られて作られたのではないだろうか。盛田嘉徳は『河原巻物』のなかで、次のように推測している。

 室町末期(一五世紀末)、領国大名が軍事的必需品確保のために、城下町に皮革加工業者を転住させるように務めた。もちろん、加工業者だけでは原材料が入手できかねるので、領国の農村地域に広く、死牛馬の解体処理者を配置し、この両者を系統的に結びつけ、それを皮多と総称した。……(中略)……皮革細工人は専業でも、一応、生計はなりたつが、解体処理に当る者は、常時その業務があるわけではなく、生活は雑業か耕作かによってささえねばならなかったが、領主からの強制によってみだりにその職を放棄することは許されなかった。(注5)

 ここから推測できるように、穢多は皮革業に縛りつけられていたから、それをおこなったのではなく、皮革が必要とされたから、縛りつけられたのである。「軍事的必需品」と表現しているように、皮革は室町、戦国、近世初期においては軍事に使われた。奈良平安時代の貴族は敷物、皮櫃(かわびつ)、革文箱(かわふばこ)、革文庫、そして着物の上に羽織る防寒用具に使ったが、中世になると武士たちが靫(うつぼ)、鞍(くら)、衣類では皮衣、革袴、皮足袋、太鼓、鼓、そして甲冑(かつちゆう)に用いたのである。鎧は、菖蒲、小桜、獅子牡丹、鴛鴦(おしどり)などの文様を染め出し、おどし(威、縅、緒通し)や縁や化粧の板や弦走(つるばしり=鎧の正面胸腹部分)や、金具部分の包みに、皮革を使った。とくに大鎧は、鉄製の薄い板金や革を長方形に切断した「小札(こざね)」を重ねてゆき、なめし皮か絹の組糸で、上下につづりあわせて作り上げる。貴族ではなく武士が使い、しかも戦国時代に膨大にふくれあがった軍需産業の一環として皮革業が位置づけられたのである。戦国武士は互いに覇権を争ったので、牧畜を産業の基本としない日本では、その獲得競争が起こったことは容易に想像できる。
 なお、なめし皮から加工品を作る皮革職人は、織物職人などと同じく専門職なので、古代に大陸から渡ってきた人々である。朝鮮からの渡来の熟練工が宮廷や寺にいて、靴や鞍やふいごの皮を作っていた、と推測されている。
 かわた村の成立時期については、さまざまな説がありながら、現在では戦国時代末期が定説になりつつある。これは以上のような需要の問題から考えても納得できる。
 問題はそのような需要と供給から、職能と居住地が世襲となり固定されたことだろう。これは近世になると武士が同様に、職能と居住地が固定されたことに対応している。中世では武士が農村部に居住し、自立的な集団を組んでいた。しかし兵農分離によって武士は城下町に暮らすようになり、その生命維持を農民に頼らざるを得なくなる。中世の所領は単に子供に受け継がれていたが、近世になると代替わりのたびに主君から家臣へ授けられる、というかたちをとる。それどころか知行所(土地)を一切もたず、給与だけもらう武士も大量に出現する。これが、近世日本は封建制度と言えるかどうか、という議論を呼ぶ点である。江戸時代の武士は明らかに官僚、あるいはサラリーマンなのだ。
 自分で自分の食料を確保できない(自給できない)という点では、当時の武士は今の日本人全般とよく似ている。だとすると米も野菜も衣料の原料も皮革も、他から確保しなければならなくなる。植民地主義がその偏りから発して搾取を常套とするように、江戸時代社会にも、依存と搾取が共存していたのである。
 題名にある最初の問題に戻ろう。「夙谷はどういうところだったのか」と言えば、武家の需要によって村々の斃牛馬(たおれぎゅうば)処理と原料供給を担当していた集落であり、皮革が必需であるために固定され搾取され強制されていたが、斃牛馬処理が常時あるわけではないので、農業を基本として生きていた。そして斃牛馬そのものの供給源としての百姓村と、対等あるいは従属の深い関わりをもっていた。
 ただしかわた村は「夙」あるいは「宿」とは呼ばれなかった。この名称をもつのは非人村である。非人村は斃牛馬処理をしなかった。斃牛馬処理をする集落は固有名詞で呼ばれるか、あるいは「かわた村」「古屋敷」「かわた屋敷」「草場」と呼ばれたのである。

(注1)中尾健次『『カムイ伝』のすゝめ』1997年 解放出版社
(注2)畑中敏之『近世村落社会の身分構造』1990年 部落問題研究所出版部
(注3)三浦圭一『朝日百科・日本の歴史70』2003年 朝日新聞社 p7−295
(注4)畑中敏之『近世村落社会の身分構造』1990年 部落問題研究所出版部 p119-121
(注5)盛田嘉徳『河原巻物』1978年 法政大学出版局  p149

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